東京に引っ越して来た時は家財道具を積んで車で自走だった。
御殿場で朝焼けの(夜通し走ったから)富士山を見たとき、あまりのでっかさに息をのんだ。
あぁ わたしも日本人だったのねぇ。。と生まれて初めて実感した。
それから、自分の意志とは別にほぼ毎年イベントのお手伝いで1年に1回だけ富士山のゴミ拾いに行く。
アルピニストの野口健さんと山梨の富士山クラブというNPOが中心で活動されている富士山清掃の年一回の恒例行事に参加する。
初めの頃は拾ってたらしいけど、最近は掘ってる。
上の方は見た目そんなにゴミは落ちてないようにみえる。
でも毎年あの辺りは落ち葉が積もって、雪が降ってを繰り返しているので、ゴミも紛れてミルフィーユになっているのだ。
見えないのはそのせい。
実家の岡山に居る頃は自然がいっぱいで、特に全く自然を意識したことはなかった。
当たり前にあるものだったのだ。
わたしが自転車にのったり、山に登ったり走ったりするようになったのは、東京に出てきてからだ。
自然というのは失って初めて気が付くものだということを実感した。
無性に自然を感じる時間が大切に思えるようになった。
近くの公園へのお散歩の中にも四季の中に息づく大切なものを見つけられるようになったと思う。
富士山にあるゴミの山は産廃や家庭から出たゴミがほとんどだ。
つまりは、自然の中で育った人々がその辺に捨てたものが多いということかな。
昔、長野の飯山にわざわざテレマークスキーに行ったことがある。
そこでも現地の人達はスキーよりもスノーモービルに興じる人達がわりといた。
これはちょっと似ていることだと思う。
なんでも同じかもしれない。。
いつも見てると真実の姿が見えずらくなる。
何が大切なのかわからなくなる。
空気さえも汚れて初めて存在とありがたみがわかるように。。
何故わざわざゴミ拾いに行くのか。
それは気付いたからに他ならない。
とはいうものの年に1度だけで面目ないってかんじだけどね。
まぁ、、無理せずご縁があるうちは続けることに意義をみつけたい。
富士山って昔から遠くで眺めるものだったらしい。
それはそれくらい神聖で尊大であるからなのだな。
今年も明日の夜から出発でほぼほぼ1泊1日・・・。
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富士山って遠くで眺めるものらしい。
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